別子銅山(2)

別子銅山の位置

別子銅山は愛媛県新居浜市南部に広がる西赤石山系の西の端に位置しています。この辺りには日本を南北に分断する中央構造線が走っており、南側の三波川変成帯には多くの金属の鉱床があることが知られています。露頭が発見され最初に採鉱が行われた旧別子地区、後に採鉱本部が置かれた東平地区があります。赤石山系には宮尾登美子の小説『天涯の花』で有名なキレンゲショウマが自生しています。山奥の山林に咲く花なので天涯の花です。不思議なことにこの花の自生地が中央構造線に沿っています。ここ以外では紀伊半島、徳島の剣岳、九州で見ることができます。日本人が初めて学名を付けた植物で、七月が見頃です。

内装リフォームも!

小足谷接待館跡

圓通寺出張所跡から歩いて行くとすぐに小足谷接待館跡があらわれます。明治初期に作られた接待館の跡です。敷地内には立派な日本庭園もありましたが、現在は赤い煉瓦の壁を残すだけです。鉱山近代化のために雇い入れたフランス人の鉱山技士ルイ・ラロックはここに滞在し「別子鉱山目論見書」作成しました。ここには採鉱課長の邸宅もあります。

小足谷小学校跡

小足谷接待館跡から足谷川沿いにさらに登ると長い石垣があらわれます。明治六年 (1873年) に開校しました。海抜千メートルを越えるところにある小学校で、当時の日本では最も高いところに作られた小学校です。明治三十二年三月末時点で教員七人、生徒二九八人が在校していました。石垣の木々は別子銅山支配人だった伊庭貞剛の意志を継いで植林されたものとされています。

世界遺産登録への動き

別子銅山は近代産業遺産の宝庫として文化財関係者等からは注目されていましたが、そのほとんどが住友グループに属することもあって、活用が進んでいませんでした。こうした近代日本を切り開く礎となった産業開発の歴史、さらにはその後の環境の復元という人の営みに着目し、また石見銀山が2007年(平成19年)6月28日にユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録が決定されたこともあって、別子銅山も世界遺産登録を目指す動きがあります。日本を代表する金銀銅の産地である、新潟県佐渡市(金山)、島根県大田市(銀山)、愛媛県新居浜市(銅山)の3市長が集まって「金銀銅サミット」が2006年5月開催されました。

端出場

最後に採鉱本部が置かれたところです。海抜一五六メートルのところに作られ、最終的には全延長一万メートルにもなった第四通洞や旧端出場水力発電所を見ることが出来ます。マイントピア別子という道の駅の周辺にいくつかの遺構が残っています。マイントピア別子では鉱山鉄道や観光坑道を見学出来ます。

別子銅山の沿革

大坂屋久左衛門経営の伊予国立川銅山で働いていた切場長兵衛は、立川銅山に隣接する足谷山(別子)に銅鉱が連鎖しているのを知り、備中の吉岡鉱山に住友の田向重右衛門を訪ね、見込みを告知しました。田向は部下とともに長兵衛を案内人に、大坂屋に気づかれないように天満村から険しい山中を踏み越えて足谷山に入り、大鉱脈が横たわることを確認しました。1690年(元禄3年)秋 - 田向重右衛門一行が別子銅山を検分しました。

開坑の計画

1691年(元禄4年)4月、住友家は開坑を願い出ましたが、その条件は下記のとおりです。

  • (1)元禄4年6月から9年5月まで満5箇年請負
  • (2)運上は銅1000貫につき130貫、代金は銅100貫目につき銀500目
  • (3)炭窯運上は10口につき1箇年銀30枚、ただし毎月上納
  • (4)銅山付近の材木は残らず銅山付
  • (5)奥山大難所の林木で年々枯れ捨てる分は銅山用材として下付など
  • (6)別子銅山と吉岡銅山に対して鉱業助成金10000両を貸し下げ
  • (7)西国筋天領のうちから吉岡別子両従業員食糧用に米6000石払い下げ、ただし10ヶ月延買
  • (8)別子銅山永代請負など

住友による開坑

  • 1691年5月 - 別子銅山請負稼行認可。
  • 1691年閏8月1日 - 採鉱開始。
  • 1698年 - 明治以前で最高の産銅量を記録。
  • 1702年 - 新居浜口屋(浜宿)を設置。
  • 1865年9月 - 広瀬宰平別子支配人となる。
  • 1874年(明治7年)3月 - フランス人鉱山技師ルイ・ラロック、別子に赴任。
  • 1875年(明治8年)10月 - 鉱山目論見書完成、ルイ・ラロック解雇。
  • 1876年(明治9年)2月 - 広瀬宰平、別子近代化起業方針を示す。
  • 1876年(明治9年)7月 - 東延斜坑の開さくに着手。
  • 1882年(明治15年)12月 - 広瀬宰平、惣開精錬所の建設を政府に出願。
  • 1888年(明治21年)11月 - 惣開精錬所操業開始。
  • 1893年(明治26年)2月 - 住友別子鉱山鉄道の下部鉄道が開業。
  • 1893年(明治26年)8月 - 住友別子鉱山鉄道の上部鉄道が開業。
  • 1893年(明治26年)9月 - 煙害問題発生。
  • 1896年(明治29年)6月 - 新精錬所の候補地を四阪島に決定。
  • 1899年(明治32年)8月 - 台風の集中豪雨により別子大水害が発生。512人が死亡。
  • 1900年(明治33年)1月 - 開坑200年を記念し皇居前に楠公銅像献納。
  • 1902年(明治35年)8月 - 第三通洞貫通。
  • 1905年(明治38年)1月 - 四阪島精錬所本格操業開始。
  • 1911年(明治44年)2月 - 住友別子鉱山鉄道の上部鉄道廃止。
  • 1915年(大正4年)9月 - 第四通洞貫通。
  • 1916年(大正5年)1月 - 採鉱本部を東延から東平に移転。
  • 1924年(大正13年)11月 - 四阪島精錬所に大煙突完成。
  • 1927年(昭和2年)10月 - 鷲尾勘解治、最高経営者となる。
  • 1929年(昭和4年)6月 - 新居浜築港計画出願。
  • 1930年(昭和5年)5月 - 採鉱本部を東平から端出場に移転。
  • 1939年(昭和14年)6月 - 新居浜築港完成。
  • 1939年(昭和14年)12月 - 四阪島精錬所煙害問題解決。
  • 1960年(昭和35年)9月 - 大斜坑の開削着手。
  • 1968年(昭和43年)3月 - 東平坑休止、東平撤退。
  • 1969年(昭和44年)2月 - 大斜坑完成。
  • 1973年(昭和48年)3月 - 筏津坑終掘、閉山。
  • 1975年(昭和50年)6月 - 別子銅山記念館開館。
  • 1977年(昭和52年)2月 - 住友別子鉱山鉄道廃止。
  • 1990年代後半、世界遺産登録を目指す動きが始まる。
ホームパーティしましょ!